もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

遠藤周作の宗教批判


 遠藤周作は、カトリックの信仰を持った作家だった。今のカトリック教会の教義は、イエスの精神とは違うというのが、どの小説でも強調される。遠藤は、神とはキリスト教会の中にあるのではなく、どの宗教にも、どの国民の中にもおられるという。むしろ神の名において自己の宗教を押し付け、政治権力と結びついて、経済的利益をむさぼる教団、自己の心の貧しさを自覚しない宗教者を厳しく批判している。それは、少数の禅学者が仏教教団の腐敗堕落、釈尊の真意からかけ離れた学問を批判するのと通じるものである。

第一、イエスと違う教会の教え
第二、人間の心の闇
第三、組織宗教は政治
第四、仏教について

第一、イエスと違う教会の教え

 遠藤周作は、参考文献にあげたようなキリスト教を題材にした小説を数多く書いた。彼のどの小説にも貫いているテーマは、次のことである。

第二、人間の心の闇

 以上のテーマと密接に関連して、次のテーマがしばしば語られる。彼の小説は、題材がキリスト教の人物にとられているので、キリスト教だけの問題のように見えるが、次のテーマがどの小説にも含まれており、キリスト教だけにとどまらず、どの宗教にもあてはまるし、どの組織にも一般にみられる問題であり、さらに人間一般の暗黒、恥部である。世界各地で宗教間に争いがあるのもこのためである。
◆「また社会道徳を守っている人間の心には、自己満足、偽善、他人を裁く、そういう宗教倫理からみると、汚ならしいものが生じているはずです。その汚ならしいものにわれわれが往々気づかないのですが、しかし神の光の中でそれがはっきり浮かびあがることがあるでしょう。」(E180)

第三、組織宗教は政治

 上記に関連して、制度となった宗教は純真な宗教心が働かず、政治力が働くということも彼のテーマである。  遠藤周作の小説を読んで、キリスト教の信者になりたいと思う人がいるそうだが、その点では、キリスト教の宣伝であると言えよう。しかし、遠藤は、そのつもりはなかった。事実、教会に行ってみたら、教会が教える神は、遠藤のいう神と違っている。逆にキリスト教団への批判である。
 遠藤周作の小説を読むことを信者に禁止する聖職者がいるという。これこそ上記の八、九番に該当する。組織命令で禁じるのではなく、信者の自由にしてどんなものを読まれても、びくともしないほどの自信のあるものでなければ本当の宗教とは言えまい。もちろんキリスト教の聖職者、信者がすべて、遠藤から批判される人ではなく、やはり、彼らの個人個人にも遠藤のいう神はおられるのだ。教会にではなく。どの宗教にも、無宗教の人の中にも、神はおられるのだ。自分を心貧しい者と自覚し、他者を裁かず、私心なく動く人の心に。

第四、仏教について

 このような遠藤周作の神、「母なるもの」「永遠の同伴者」としての神、「教会の外におられる神」は、禅仏教とほとんど同じである。事実、対論集の中で遠藤は次のように言う。
◆「人間には仏教で言う仏性があるのだから、どんな人でも必ず救われると思います。」(E207)

◆「使徒行伝なんかを読みますと、ポーロがダマスカスへの途上で、彼を盲目にさすほどの光にあって、思わず倒れてしまい、キリストに出会ったと書いてありますが、いま言ったようなことを当時の人たちは象徴的にそう書くより仕方がなかったからです。要するに戒律というか、意識的信仰というものを全部捨ててしまって裸になった時に、キリストに出会ったということです。仏教では分別智識の世界を捨てた時、悟りに入ると言いますね。あれに似ているのだと思うのです。だから、私の心の中にキリストがいるんだということをポーロが言っているのですが、これは仏教で言う己事究明、己(おのれ)のことを究明して、自我煩悩というものをどんどん捨てていったら、自我ではなく、最後に本当の自己というものにぶつかって、そこに仏様の御心が働いていると自覚するのと似ていると思います。精神の基底となるところを仏教では阿頼耶識と言っていますが、心の活動の根源となるこの阿頼耶識は、因果の法則とともに仏様の力も働くのです。これはキリスト教で言うと、ポーロが戒律のがんじがらめから脱出してキリストを見つけたというのと同じだと考えていいと思います。」(E174)

   
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